北星余市応援ラジオ 振り返り

2月16日の配信から、ずいぶん間が空いてしまいました。
北星余市応援ラジオのMCを担当しました藤井です。
当日の振り返りをしながら北星余市存続の意義を考えてみたいと思うわけですが。

すでに様々なところで北星余市について語られています。
テレビでもかなり取り上げられていますし、何より北星余市の特徴のひとつですが現役の生徒も含め卒業生や親御さんなど関係者の皆さんが活発に動かれていて、そこでも様々な言葉が発せられています。
今回のラジオもゲストは卒業生とその親御さん。
深く関わったからこその言葉が出されていました。

そういった中、自分は第三者、外部にいる者としての視点から、北星余市について話すべきなんだろうと思います。
北星余市の閉校に関して、「時代の流れとしてその役割が終ったから」という言説が見られます。
自分もそういう側面はあるだろうと思ってはいました。
少子化の影響や不登校の子どもたちの行き場所が増えてきたという観点で考えれば、実際そうなのかもしれない。
ただ、北星余市がこれまで積み重ねてきた膨大なノウハウや関わってきた人たちの意思が、しっかりと別なところへ引き継がれる体制が整っているかというと、それは「NO」でしょう。
例えばフリースクールがそれに取って代わる存在かというと、違う。
下宿も含めて町ぐるみで体制を整えているところも、まず他にはないでしょう。
2016年度の入学者数で判断して2018年度からの入学を取りやめるとなると、そういった辺りの検証をしっかり行なうことは出来ない。

ラジオの中で私は「人間は何かから必ず逸脱するもの」と言いました。
どんな仕組みや制度を作っても、それに合わない人というのは必ず出てきます。
既存の学校という大がかりなものであれば、そこに合わない子どもは相対的に多いでしょう。
もちろん北星余市に合わない子どもだっている。
学校に限りません。
社会のあらゆる仕組みに対しては、そこに適合できない人は必ず存在する。
それが人の変えようのない本質なんだと思います。
そういった中で全ての人が安心して社会生活を送ることができることを目指すのであれば、ひとつのシステム(社会と言ってもいい)に無理にでも適応させるより、複数のシステムで補い合った方が現実的であるはず。
そう考えたときに80年代後半(まだバブルがはじける前の総中流社会と言われていた頃)から、中退者などの社会から排除されていると見なされていた子どもたちの受け皿になっていた北星余市の先見の明と言える着眼点と長大な実績がほとんど検証されずに無くなってしまうのだとしたら、それは社会的な損失と言えるのではないか。

時代の変化の影響から逃れることはできないでしょう。
北星余市が今後変化を強いられる側面はあるだろうし、環境が整えば別なシステムに取って変わることになるかもしれない。
しかし、それにあたっては適切な段取りを経る必要がある。
今回の閉校にあたって提示されている条件は、適切な段取りとはいえないんじゃないか。
それが今回のラジオでの話と、それにあたって見聞きしたことから感じることです。
それこそ『検討』を何より重視する「フリースクール検討委員会」としては、『検討』が足りないのではないかと思うところでもあるのです。(藤井)