ひきこもりだった自分が、今、自分の内側と向き合ってみて思ったこと。

 

家に引きこもりだった時期を脱して約8年が経ちました。当時の自分は遠い過去のようで、その芯のようなものは未だに自分の中に残っているものだなぁと感じることがあります。

一般的なひとと何か違うのか、僕は人とすごい距離感を持っていました。それは今でもあったりします。自分は何かひととは違う特殊な存在なんだと思うような所も強かったし。(笑

 

でも、何がそう思わせていたのか、自分の意識の内側に厚く堅い殻に覆われた種のようなものがある。その殻を持った種を「自分」と思って、他と接することにあまりにも慣れてしまった・・・。いつ頃から、そんな殻が出来てしまったのかな・・・。

 

幼かった子どもの頃、そんな殻はなかったさ。あったとしても、ふにゃふにゃだった。無条件にひとを信じて、尊敬の思いをもって、親のことが大好きだったはず。

でもどこかで、その種は堅い殻を持つようになった。たぶん、とても辛い経験をしたのかもしれない。心に爆弾のような言葉を落とされたのかもしれない。そんな人から誰かを守りたかったのかもしれない。

認めたくないけれど。やっぱり、厚い殻にある性質は「敵対心」なのかもしれない。

だから、僕がゲームに嵌まり込んでしまったのは、その思いが強かったからだと思う。強ければ強い分だけ殻も堅く厚いから、まわりのことが視えなくなってしまう。だから自分中心なひとと思われがちなんだ。

でも自分がずっとそう在るのはつらいことだと思うようになった。もっと、安心した柔らかい人間になりたい。

 

 

『許す者は許される』という僕の好きな言葉がある。

キリスト教の聖書の言葉だろうか。

 

「敵対心」を「許し」に変えていくには、並ではない内面的努力と誠実さが必要になるけれど、ひきこもりのひとには、きっとこのぶ厚い殻がある。種は安心という土の中で、清らかな水と、光の温かさを受ければ、自然と芽がでて、殻は土に還るかもしれない。

だから、僕の目標は、

ひとにとって、これからはそのような田と水と光のようで在れること。それから、既に自分という種の殻の内側にある「敵対心」の思いを変えていくこと。敵意がなければ、殻もお役御免なのだ。

それは、武器をすてて、愛を育むということなのかもしれない、真の信仰とはそういうものなのかもしれない。

インドの聖者がこう教えてくれた。

「清潔を保った身体という葉、円熟した心という甘い果実と、清らかなハートという花。」

 

さまざまな理不尽な状況にあっても、ぼくは敵意を持たない者で在りたい。辛く嫌な経験をして、硬い殻として在ることから越えて。

 

そういう自分こそ、本当の自分のあり方に近い気がするんだよなぁ──笑

 

 

そういえば、「ちいさなプリンセス ソフィア」という子供向けアニメがあって、「シンデレラ」が登場して歌う場面があります。

 

その歌がとても素敵だったなあ。「True Sisters」 はじまりのものがたり。より一部

──♪

素敵な王子様と恋におちて
家を離れお城で結婚したわ
夢のように素敵な暮らしのなかで
時々昔を思い出すの

二人の義理の姉はやきもちを焼いて
ドレスも絆も引き裂いたのよ
でも もし姉たちとやり直せれば
今なら仲良く出来る気がするの

相手のことを思いやれれば
素敵な兄弟になれるはずだわ

──♪

 

 

なんでそんなアニメを知っているかって。

った、たまたまですよ。(笑

それではまた機会がありましたら、次回の記事で───ノシシ