ひきこもりだった自分が、今、自分の内側と向き合ってみて思ったこと。(2)

先月、TVで注目されたウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカさんの講演内容の日本語訳記事を読むことができました。

講演記事のタイトル部分の最初には「一番大きな貧困は孤独」とあります。

孤独とは何だろうかなぁ・・・と、考えてふとぼくが思ったのは、都会の人でした。
たくさんの人の中にいてもすごく孤独感があると聞くので、それは誰もまわりに居ないことではなく「誰ともわかりあえない、わかりあおうとすることができない」ことではないかなと思うところです。

ひきこもりになるきっかけは人それぞれでも、その『誰ともわかりあえない、わかりあおうと思えない。』というのはひきこもりに一番共通した分野だとも思います。

前回の記事で話した厚い殻の内側の自分は、他のひとと相容れないものになってしまっている。

 

とはいえ、ひきこもりに限った話ではなく現代社会においては潜在的にみんなひきこもり的なものを持っていると思えてしまいます。

それでも、もし大きく違うものがあるとしたら、『わかりたい、わかってあげたい。』という思いに強いブレーキがかかってしまっていることかもしれません。

頭で相手の状態を理解しているとか知っているということではなく、頭と心の両方を活用して相手にハートを向けられるということ。

いじめや、身近な人間関係に不和があると、問題を起こすそのようなひどい相手のことを「わかる必要なんてない」って思えてしまいます。
自分(たち)を守ることで精一杯だったりすると、当然相手を『わかりたい、わかってあげたい。』なんていう想いも湧きません。

少し視点は変わりますが「わかること」は、相手をせめるうえで、自分も傷けることになったりします。
例えば、RPGのゲームでは自分のキャラクターのレベルを上げたり、ストーリーを進めたりするためにはモンスターをやっつけなければなりません。ゲームを楽しむためにはモンスターを「やっつけて当然の相手」と思えなければ、逆にそんな自分こそが一番の悪人としての可能性があります。
だから、だいたいのゲームで敵として現れるものはそのようなものとして描かれ、プログラムされています。
でも、もしもモンスター(敵)達のボスが気高き美少女・美青年であって、自分がそのひとをとても愛してしまったら。その配下のモンスター達のことも今までのように「敵」とみなして無慈悲に攻撃すことができるだろうか・・・って。思うんですよ。

だいぶ前の作品ですが「無責任艦長タイラー」という宇宙を舞台にしたアニメ作品があって、その中で互いに敵対する勢力にいる「タイラーとドム」の“対決”が描かれる場面があります(第23話「宇宙で一番長い日」)

二人は敵同士なのに、相手を信じて自分の部下に攻撃命令を出しません。

「そのまま前進ー!」

両軍は前進を続け、すれ違うところまで来ています。味方の中には命令を下さないタイラーに刀で切りかかろうとする者もいます。命令ひとつで両軍が入り乱れる、そんな一触即発のビリッビリッした状況。

 

・・・ああ、いいアニメだったなぁ。(ここで結果は言わない)笑

 

なんだかんだでRPGゲームの話にもなりましたが、おなじみになった「ゲーム学習会」も今月あります。先月のゲーム学習会には僕も参加させていただきました。64のスマブラで僕は負けてばかり・・・くやしい(笑)

くやしさのあまりこういう記事を描くという。主催のフリスク検討委員会にこんなメンバーがいていいのかとも思うけれど(笑)

いいことにしてください。(笑) では、今日はこのあたりにします。

それでは、機会があればまた次回の記事で──b ノシシシ